コラム1|「失語症に負けたりしません。」グーとパーで会話したご夫婦のお話

コラム1	グーとパーで会話の糸口を見つけたご夫婦のお話のイメージ

何年も前のことです。ある病院で80代の日本人男性のセラピーを担当しました。仮名をMさんとします。Mさんは脳溢血で重度の失語症になってしまい、言葉が全く出てこず、ご自分の名前さえ言えないような状態でした。

その日は金曜日だったのですが、ソーシャルワーカーの話によると、Mさんはその日の夕方には退院の予定とのこと。訪問セラピーが自宅で始まるまでの数日間、奥様とコミュニケーションをとれる方法を考えてほしい、という相談を受けました。

このような重度の失語症の場合、書く能力や物を指さす能力が少しでもあればそれを使ってコミュニケーションの手段にするのが通常ですが、Mさんの奥様は目が見えない方でしたので、書いたり読んだりは、おふたりのコミュニケーションには残念ながら効果がないものでした。もともとスマートフォンやインターネットを使うような方であれば、書いた文章を音読する機能を利用することもできたと思いますが、その方はそのようなデバイスを使ったこともなく、Mさんの指先は脳溢血の後遺症でうまく動かないということもあり、それもふさわしくないコミュニケーションの方法だということは明瞭でした。

ここで私が思いついたのは、グーは「はい」パーは「いいえ」として、手で奥様とコミュニュケーションを取ることから始める、という方法でした。私はおふたりにこの方法を簡単に説明したのち、その場で練習してみることをおすすめしました。

「奥様、何か質問してみて下さい。ご主人が『はい』『いいえ』で答えられる質問です。」と促すと、奥様の質問は「今日の夜ごはん、何が食べたい?」というもの。しかしそれでは「はい」「いいえ」では答えられません。ご主人が好きな食べ物をひとつずつ「○○食べたい?」という形で聞いてみて下さい、と説明すると、奥様はなるほど、と思ったようで、

「今日の夜ごはん、おすしにしましょうか」と言い換えました。すると患者さんは笑顔になり、手のひらをにぎりグーにしました。「それでは、その手を奥様の腕に軽く押し付けるようにしましょう。そうすることで、奥様が手の形が見えなくても答えが伝わります。」と説明しました。ふたりとも嬉しそうにうなずいています。

それから奥様は色々とMさんに質問していきました。「頭はまだ痛い?」「看護婦さんを呼びましょうか」などなど。Mさんがそれにグーとパーで次々と答えていきます。意思の疎通ができるようになり、2人ともホッとした様子でした。

退院の手続きも終わり、車いすも手配されたとソーシャルワーカーからの電話があり、名残惜しいけれど私はここで失礼しようと病室を出ようとしたその時。奥様はMさんに「ドゥーユーラブミー?」と尋ねました。するとMさんは、しっかりと握ったこぶしを奥様の腕にぐいぐい押しつけてその質問に答えました。言葉にはならなくても「当たり前だろう」と言っているのがはっきりと伝わりました。2人はそのまましばらく泣いたり笑ったりしていました。

ことばは、情報を交換するためだけの道具ではありません。あなたの大切な人に心を伝える大事な「道」です。言葉のセラピーはドリルやワークシートにとどまってはいけないと私が常に提唱しているのはそのためです。その方のお悩みやご家庭の状況などを考えにいれ、今日何が一番役に立つのかを考えそれを基にセラピーをつくりあげていくことが言語聴覚士の本当の使命だと私は考えます。

あなたは、もしくはあなたが知っている失語症を患っている方は、現在、どのような言語セラピーを受けていらっしゃいますか?もし、ご自身の問題解決に役立っていないと感じられるなら、ご自分の言語聴覚士の方に相談し、セラピーの内容を変えていただくことをおすすめいたします。もしそれでもご自分の納得のいくセラピーが受けられないということでしたら、どうぞ一度私にご相談ください。これまでできなかったコミュニケーションの向上を実現できるよう、全力でご指導いたします。